奈良2日目午後は桜井市へ移動し、等彌(とみ)神社へ。等彌神社の背後にある鳥見山(とみやま)は、神武天皇が祭祀を行った聖地とされています。

神武天皇4年如月、建国の基礎が定まったため、鳥見山に「靈畤(れいじ、まつりのにわ)」を立て、皇祖天神(みおやのあまつかみ)をお祀りになられました。即位後初めて皇祖神を祀ったとされることから、大嘗会(だいじょうえ)の始まりともされています。※大嘗祭は天皇即位後初めて行う新嘗祭であり、一世一代の重要な儀式。


日本書紀によれば鳥見山の中、と記載されているため、山頂ではなかったのかもしれませんが、等彌神社では、鳥見山を少し登ったところを靈畤(まつりのにわ)拝所、さらに登ったところを、庭殿、さらに上を白庭、山頂(標高245m)を靈畤(まつりのにわ)としています。

手水舎にいるのは亀ではなく、贔屓(ひいき=龍の赤ちゃん)。
カンカン照りの太陽の下、最高気温38度という苛酷な環境での山登りになることが予想されましたが、神社の鳥居をくぐるとすぐに、ポツポツと雨が降り始め、お手洗いに行ったり手水でお清めをしたりしている間に、ザーッとひとしきり降ったかと思うと、3分ほどでサッと止みました。このにわか雨のおかげで、ぐんと涼しくなったのは有難い限りでした。東京からわざわざお参りにきたわたしたちを憐れんで、神様が涼しくしてくれたのではないか……そんな神様のお慈悲を感じられた不思議な出来事でした。

等彌神社の下津御社(しもつおしゃ)拝殿。背後にある2つの本殿は左が春日社でタカミムスビノカミ(高皇産霊神)、右が八幡社でイワレミョウジン(磐余明神=神武天皇)を祀っています。タカミムスビノカミは、天照大御神と相談して神武天皇の案内役としてヤタガラス(八咫烏)を遣わし、東征を助けた神様です。

恵比寿社


上津御社拝殿。皇祖神であるアマテラスオオミカミ(天照大御神)を祀っています。しかし、そもそもはニギハヤヒノミコト(饒速日命)を祀っていたのではないか、という説もあるようです。
千葉県にも鳥見神社(とみじんじゃ、またはとりみじんじゃ)と名の付く神社が20社もあるようですが、そのご祭神はみな饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を祀っているのです。ニギハヤヒは、イワレビコが大和の地をあと一息で平定できるという時に現れ、抵抗勢力であったトミノナガスネヒコを従え、イワレビコに恭順の意を示して従いました。そして、自分もイワレビコと同じく天津国(アマツクニ)から来た子孫だと語り、その証拠の宝物を示しました。ニギハヤヒは物部氏の遠い祖先であるとされています。
鳥見神社という名前の「鳥」からイメージされるのは、古事記で神武天皇の東征を助けたとされる八咫烏(ヤタガラス)や日本書紀で神武天皇の弓に止まったという金色の鵄(トビ)ですが、一方「とみ」という音に着目すれば、これは神武東征に最大の危機をもたらしたトミノナガスネヒコ(登美長髄彦)(イワレビコの兄のイツセノミコトは、トミノナガスネヒコの矢に当たり、しばらくして命を落とします)の「トミ」と一致します。トミに住む長い脛の男がナガスネヒコだったと考えられます。トミノナガスネヒコは古事記では最後は抵抗せずに従い、日本書紀では最古まで抵抗してニギハヤヒに殺されたことになっていますが、ニギハヤヒはナガスネヒコの妹を妻にめとっており、非常に近い関係でした。
かつてこの地方の最有力豪族であったトミノナガスネヒコ一族(饒速日をも含む)への配慮から、神武天皇はわざわざトミ山で祭祀を行った、という可能性もあるのではないでしょうか。
神武天皇は橿原の宮にお住まいなのですから、目の前の畝傍山で祭祀を執り行えば簡単なのに、わざわざ徒歩2時間もかかる鳥見山に出かけて行ったのにはなんらかの理由があるのではないか、と思うのです。
大和の地を自分よりも早くから治めていた者たちの本拠地に赴くことで、彼らの存在を尊重するという配慮を表現したのでは?
日本の国づくりは大量殺戮や奴隷制や宗教の強制といったことを避け、極力話し合いや婚姻関係を結ぶことなどにより、平和裡に進められてきました。
神武天皇が鳥見山で重要な祭祀を行ったのも、自分より古くから大和の地で暮らしていた人々を尊ぶ姿勢の表れのひとつだったかもしれない、と思うのです。

神武天皇が祭祀を行った 靈畤 (まつりのにわ)を下から拝める場所(だったはずですが、木が茂っていて山の頂上は見えません)

靈畤 (まつりのにわ)拝所にある万葉歌碑

万葉の昔には「鳥見山(とみやま)」を「跡見山(とみやま)」とも表記したようです。わたしの中学高校は「跡見(あとみ)学園」だったのですが、初代校長先生の「跡見」という苗字は、この地名と関係があったのでしょうか。

鳥見山を登っていきます


「庭殿」にある歌碑


庭殿は開けた平地になっていますが、決して広くはありません。ここで饗宴がおこなわれたのでしょうか。
頂上まで登りたかったのですが、バスの時間も考え、ここで断念。

さて、この神社で有名な物のひとつが、敷地内から出土したと伝わる鳥人間の像です。一般的には八咫烏(やたがらす)の像と考えられていますが、神武天皇その人だ、という説もあります。元文元年(1736年) 敷地内の整備の折に、池のほとりの松の枯れ株の下から出土。その整備工事に携わった職人が、この像を家に持ち帰ったところ、病気になるわ、身上は傾くわ、で、祈祷師を読んで占いをしてもらったところ、「神様を動かしたのがいけない。その祟りだ」と言われ、(あ、あの像のことか)と思い、神社に像を返したところ、やっと祟りが収まった、との逸話が残されています。
その以来、ご神宝として神社の本殿でお祀りされているとのことです。 その八咫烏像と金色の鵄(とび)がデザインされたすてきな手拭いを購入してきました。